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演奏の深みと、音の遠達性――「速さ」の時代に問う、本物の響き

lifesound
11 分前
読了時間: 10分

音の深さと遠達性――私の耳で聴いてきた音楽

スピーカーを聴いていると、「速い」「遅い」「ライブ感がある」「響きが豊か」といった言葉が使われます。


演奏についても同じように、「速い」「正確だ」「音が細かい」といった評価を耳にします。

けれど、私は長く音楽を聴いてきて、どうもそれだけでは説明できないものがあると感じています。


私が気になっているのは、音の深さと、音の遠達性です。

この文章で書くことは、一般的な演奏家の評価ではありません。

あくまで、私がこれまで音楽を聴き、楽器に触れ、オーディオで音楽を聴いてきた中で、私の耳にはどう聴こえるのか。

そこを軸につぶやいてみたいと思います。


「遠達性」という言葉について


ここで、私が使う「遠達性」という言葉について、少し説明しておきたいと思います。

音響の世界では、音が遠くまで届くことについて、音圧、指向性、周波数特性、音源の大きさ、空間の響きなど、さまざまな要素から説明することができます。


もちろん、そうした音響的な意味での「遠くまで届く」という現象はあります。

しかし、私がここでいう「遠達性」は、それだけを意味しているわけではありません。

私が長年、実際の楽器や演奏会、そしてオーディオを聴いてきた中で感じてきた、


音の芯や密度を保ったまま、その音楽的なエネルギーが空間を進み、遠くにいる人のところまで届いてくる感覚。

私は、それを「遠達性」と呼んでいます。

単純に音が大きいということでもありません。


近くでは非常に鮮明に聴こえるのに、少し離れると音の存在感が薄れてしまう音もあります。

反対に、音量そのものは決して大きくないのに、遠くにいても音の芯が感じられ、音楽がしっかりとこちらまで届いてくることがあります。

私が聴きたいのは、後者です。


ですから、ここでいう「遠達性」は、厳密な意味での音響測定用語として使っているのではありません。


私自身が音楽を聴く中で感じてきた、音の届き方を表すための言葉です。


速い演奏と、深い演奏


たとえば、福田進一さんの演奏を聴いてきました。

非常に高い技術を持ち、速いパッセージも驚くほど滑らかに弾いていかれます。


福田さん自身、ギターの音色や響きについて深く考えて演奏されていることは、これまでのお話からも伝わってきます。

それでも、これはあくまで私の耳の感じ方なのですが、福田さんの速いパッセージを聴いていると、ときどき指が弦の表面を素早く撫でていくように聴こえることがあります。


これは、福田さんの演奏を否定しているわけではありません。


むしろ、私がここで書きたいのは、上手いか下手か、速いか遅いかという話ではないのです。


私が求めている「深い音」とは、少し違う方向に聴こえることがある、ということです。

速い。

音が細かい。

正確である。


それだけでは、私が感じている「深い音」とは少し違うのです。


私にとって深い音というのは、音の芯があり、その中に密度があり、弦そのものがしっかり振動しているように感じられる音です。


そして、そのエネルギーが近くで終わらず、空間の中を進んで、遠くまで届いていく。

それが、私がここでいう「遠達性」です。


私の耳に残っているセゴビアの音


私が実際に聴いた音の中で、今でも強烈に残っているのが、アンドレス・セゴビアです。

日比谷公会堂で聴いたセゴビアの音。


クラシックギターを聴くには、決して条件の良いホールではありませんでした。

それなのに、セゴビアがラミレスⅢで鳴らした一音は、しっかりとした芯を保ったまま、二階席の一番後ろまで届いてきました。


大きな音だった、ということではありません。

音量とは違うのです。

音が遠くまで届く。


そこには、私がいう遠達性がありました。

そして、その音が不思議なほど唸って聞こえたのです。

音が唸る――。


低音だけが鳴っているのではありません。

一音の中に密度があり、その振動が空間を押し出すように広がっていく。

私の耳には、それが「ブーン」と唸るように感じられたのです。


そんな体験は、それまでにも、その後にもありませんでした。


和音を弾いたときにも、一音一音が欠けることなく、すべての音が揃って発せられているように聞こえる。

それは、単に解像度が高いということとも違いました。


音の一つひとつに芯があり、それらが重なりながら、一つの大きな響きになって遠くへ届いていく。

私の耳には、そう聴こえたのです。


小原先生のギターを弾かせていただいた


小原聖子先生についても、忘れられない経験があります。

私は小原先生の弟子ではありませんでした。


小原先生のご主人とご縁があり、幸運にも小原先生のギターを弾かせていただく機会がありました。


それは、マルセロ・バルベロ一世のギターでした。

イエペスと小原先生がお若い時にバルベロの工房を訪れ、注文された作品だったと伺っています。


そのギターには、かなり長い時間、弾き込まれてきた跡が残っていました。

表面板は割れて修理され、ネックの一部は塗装が剥がれていました。

実際に手に取って弾いてみると、その楽器が長い年月をかけて弾き込まれてきたことが、音だけでなく、手に伝わる振動からも感じられました。


そして、そこから生まれる音色は、本当に素晴らしいものでした。

あまりにも美しい音色が出て、しかも弾きやすい。


「この楽器、譲って下さい!!!」

と言い出しそうになるのを、必死に堪えていました(笑)。


私の知る限り、小原先生は伝統的なギターの音をご存じで、それを聴かせてくださる数少ない尊い存在の方だと思います。


芯のある、骨格の整った美しい音。

それを、実際にその方の楽器を自分で弾かせていただいたことで、楽器が持っている響きの深さを、より身体で感じることができました。


楽器というものは、ただ音を出すための道具ではない。

弾き手が積み重ねてきた時間までも、音の中に残っていく。

私は、そんなことを感じました。


実際に楽器に触れて分かったこと


実際に自分の手で弾いてみる。

そのときに感じるものは、音源を聴いているだけでは分からないものがあります。

弦に触れ、楽器が振動し、その振動が身体を通して返ってくる。

音がどこから生まれ、どのように楽器全体へ伝わっていくのか。

私は、こうした実際の体験を重ねる中で、自分なりの「音の聴き方」が少しずつ形になっていったのだと思います。


松田晃演先生の音


松田晃演先生の演奏を聴いたときにも、私は強く感じるものがありました。

私の耳には、音が表面を素早く走っていくという感じではありませんでした。

音に厚みがあり、芯があり、弦の奥から押し出されてくるようなエネルギーがある。

そして、そのエネルギーが遠くまで届いていく。

「速い」という言葉だけでは、どうしても説明できない音でした。

私がセゴビアの音に感じたものと、どこか通じるものを感じたのです。


山下和仁という異才


ここで「速い演奏は浅い」と考えてしまうと、それも違います。

そのことを強烈に感じさせてくれるのが、山下和仁さんです。

残念ながら、山下さんは今年亡くなられてしまいました。


山下さんは、若い頃にセゴビアから速く弾きすぎることを注意されたという話があります。

一方で、山下さんの演奏には、たった一本のギターからとは思えないほどの強烈なエネルギーがあります。

「展覧会の絵」のような、本来はオーケストラで演奏される作品までギター一本で弾いてしまう。


その音には、速さだけでは説明できない圧倒的な力があります。

私は時々、もしセゴビアが山下さんの演奏を聴いたなら、どんな顔をしただろうと思うことがあります。


「私の知るギターとは違う」

と、眉をひそめたかもしれません。

それでも、たった一本のギターでホール全体をねじ伏せ、楽器の限界を押し広げてしまった、その異才には、最後は苦笑いしながら脱帽したのではないだろうか。

そんなことを想像してしまいます。


なぜなら、山下さんの演奏には、「速さ」と「深さ」は別のものだということが、強烈に表れているからです。


速くても、深い。

ただ速いのではなく、それが彼の演奏表現として必要な速さだったのでしょう。

激しくても、音の芯がある。

そして何より、全身全霊、生命を込めて演奏される。

そのエネルギーが、遠くまで届く。

そういう演奏も、確かにあるのです。


ヴァイオリンでも、ピアノでも


これはギターだけの話ではありません。

ヴァイオリンでも、私には同じように聴こえることがあります。


吉村妃鞠さんの演奏を聴いていると、私には弓が、ただ弦の表面を滑っているのではなく、弦をしっかりと捉えているように聴こえます。

その振動が楽器全体へ伝わり、音に芯と厚みが生まれる。

そして、その音が波となって遠くまで届いてくる。

これも、あくまで私の耳にそう聴こえるということです。


ピアノでも同じです。

辻井伸行さんの演奏には、高い正確さと流れるような速さがあります。

一方で、私の聴き方では、ときどき音の立ち上がりが表面で終わってしまうように感じることがあります。




それに対して、杉林岳さんの演奏を聴いたときには、私の耳にはヨーロッパの伝統的な響きが感じられました。


鍵盤の表面を叩いて音を出すというより、鍵盤から深く音が入り込み、ピアノそのものが鳴っているよう、あるいは歌っているように聴こえる。

音が一点から出て終わるのではなく、楽器全体から豊かな波となって広がっていく。

ここでも、私が聴いているのは「速いか遅いか」だけではありません。


近くで鮮明に聴こえることと、遠くまで届くこと


ここが、私がオーディオでも大切にしているところです。

近くで聴けば、音が細かく、輪郭が鮮明で、立ち上がりが速い。

それは確かに一つの魅力です。


けれど、

近くで鮮明に聴こえることと、遠くまで音が届くことは、同じではありません。

音の芯。

密度。

倍音。

和音の中にある一音一音。

そして、その音が空間の中を進んでいくエネルギー。


私は、そうしたものを含めて音楽を聴いています。


だからこそ、オーディオでも単純に「速い音」を求めているわけではありません。

速さだけを追いかけてしまうと、音楽の中にある深さや厚みまで失ってしまうことがある。

反対に、響きが豊かだからといって、それだけで深いとも限りません。

大切なのは、その音の中に何があるのか。

そして、その音がどこまで届いてくるのか。

私は、そこを聴いています。


オーディオでも同じことを考える


だから私は、スピーカーを聴くときにも、単に解像度が高いか、音場が広いか、立ち上がりが速いかだけでは判断しません。


音楽が鳴ったときに、

その音に芯があるか。

一つひとつの音が生きているか。

倍音が自然に重なっているか。

和音の中の音が欠けていないか。

そして、そのエネルギーが空間の中を進み、遠くまで届いてくるか。

そこを聴きます。


私にとってオーディオは、音を作るためにあるものではありません。

オーディオは音楽のために有る。


だから最後に聴きたいのは、機器の能力そのものではなく、その機器を通して音楽がどう届いてくるのかです。


演奏者が出した音の中にあるものを、どこまで感じ取ることができるのか。

それが、私にとってのオーディオです。


私の耳で、音楽を聴き続ける


私は、これまでいろいろな演奏を聴いてきました。

速い演奏も聴きました。

静かな演奏も聴きました。

力強い演奏も聴きました。

そして、実際に楽器を手にしたこともあります。

その中で少しずつ、自分が何を聴いているのかが分かってきました。


私が聴きたいのは、単なる速さではありません。

音の深さ。

音の芯。

音の密度。

倍音。

そして、音が遠くまで届いていく力です。


それは演奏家を順位づけするための物差しではありません。

あくまで、私が音楽を聴くときの物差しです。

音は、近くで鳴っているだけでは終わらない。

深く鳴り、空間を進み、遠くまで届く。

そして、その音が、魂を震わせる。

私は、そんな音に基づく音楽を聴きたいのです。



 
 
 

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