ライフサウンドの哲学
- lifesound
- 4月1日
- 読了時間: 4分

それらしく見えるように描かれた絵
オーディオの音を評価する際、私が長年用いてきた比喩があります。 それは、「手ブレした写真」と「油絵の筆のタッチ」です。
フラッグシップ機などの高級機にありがちな、厚みや迫力を備えた「それらしい」音。 しかし一歩踏み込んでその音を注視(注聴)すると、そこには決定的な「ボケ」が存在しています。
■ 苦い原点:壁の中に埋めた「10万円の教訓」
店主がこのボケの正体である「迷走電流」の恐ろしさを痛感しているのは、理屈ではありません。ライフサウンドの開店当時、私自身が犯した、あまりにも手痛い失敗が原点にあります。
当時はまだ知識も少なく、ケーブルの構造的問題など知る由もありませんでした。見た目の美しさを優先し、工賃だけでも10万円を投じて、部屋の壁の中に長い長い「撚り線」10メートルのスピーカーケーブルを這わせたのです。それは当時オーディオ雑誌でも評判が良いものでした。(汗)
しかし、鳴らした瞬間に突きつけられたのは、無残なほどボケた音でした。 「こんな音で商売をするのか? これでは人様に販売するなどおこがましい……」 目の前が真っ暗になりました。開店しようとした矢先に、店を閉め、オーディオの仕事そのものを辞めてしまおうかと本気で思い詰めたほどです。あの時の絶望感は、今でも忘れることができません。
■ 「手ブレ」という迷走電流の正体
なぜ、優れた設計であるはずの機器で音がボケるのか。 その大きな原因のひとつが、内部配線に用いられる「撚り線」構造から生まれる迷走電流です。
素線の間を信号が飛び移る際に生じる、ミクロな時間軸のズレ。 それは写真で言えば、輪郭が二重、三重に重なった「手ブレ」そのものです。音の立ち上がりが滲み、本来あるべき鋭いピントが失われてしまう。また、それは「油絵」にも似ています。 遠目には質感豊かに見えても、近くで見れば絵具の塊に過ぎない。 そこには演奏家の体温や、楽器が発する真実の響きは宿っていません。

↑迷走電流によってピントが崩れた音は絵にしたら
↑の画像をしっかり見てください。この筆致、この滲み。これは、それらしく描かれた絵の中央部にある家の屋根ですが、近くに寄れば、そこにあるのは真実の風景ではなく、絵具の塊です。迷走電流によってピントが崩れた音は、脳に『補正』という過酷な労働を強います。私が体験した滑舌の鈍りは、このボケを一生懸命に脳が修正しようとした結果なのです」
■ 構造が生むパラドックス
この問題は、高価なフラッグシップ機に限ったものではありません。 むしろ、構造がシンプルな機器——基板からスピーカーターミナルへ最短で接続されるような設計——の方が、結果として迷走電流の影響を抑えている場合もあります。
皮肉なことに、多機能で豪華な内部構造を持つ高級機ほど、その構造自体が迷走電流を増大させ、音を濁らせる罠に陥っているケースは少なくありません。
■ ボケた音は「音程」を狂わせる
この「ボケ」は、単なる解像度の問題ではありません。 音の輪郭が滲むということは、音の最小単位である「振動の周期」そのものが曖昧になるということです。
音の出だしがボケれば、音程の基準点は揺らぎます。余韻が濁れば、次の音との境界が曖昧になる。その結果、脳は「正しい音程」を瞬時に判別できず、入ってきた情報を無意識のうちに描き直すという過酷な補正作業を強いられます。
店主自身が体験した、滑舌の鈍りや喉の違和感は、まさにこの「ピント合わせ」に脳が疲弊した結果だったと考えています。
■ レンズを磨き、ピントを合わせる
私たちの仕事は、オーディオというレンズを磨き上げ、迷走電流という「手ブレの原因」を取り除くことです。
調律されたシステムにおいて、音のピントが合った瞬間、脳は補正という負荷から解放されます。 そこに現れるのは、加工された音ではなく、ただそこに存在する音楽そのものです。
そのとき音は、単なる刺激ではなく、人の生命を健やかに保ち、心身を解放するエネルギーへと変わります。
「再生とは、生命の健やかさを守る設計である」
どれほど高価なフラッグシップ機であっても、あるいは手軽な入門機であっても、この「ピント」が合っていなければ、それは完成とは言えません。
あの開店当時の絶望があったからこそ、私はこの信念に基づいて、音と向き合い続けてきました。 そしてこれからも、お客様の声に耳を傾けながら、音楽が人の心にどのように作用するのかを見つめ続けていきます。
音楽再生によって、心が満たされること。 日常に静かな充実が生まれること。
そのために、ライフサウンドは探求を続けていきます。




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